elgarian_tub’s diary

コンサートやオペラ、映画、書籍など、見聞きしたものの感想と、日頃思うことなどを、好きなように書き散らかします。筆者は社会科学系博士課程院生、アマチュア・オーケストラ奏者。ブログの内容は所属や本人の研究と何ら関係ありません(と書かなきゃブログも気軽にできないご時世)。

停滞の2020年度が終わった

年度が切り替わる節目のここ数日、FBやTwitterなどのSNSを開くと、多くの人の卒業・就職・異動などの報告や、1年間の振り返りのエントリーに溢れている。連絡不精で誰かと日常的に連絡を取り合うということがほとんどない私にとって、近況報告を眺められるのは嬉しいものだ。

だが、多くの人の近況を眺め、通り一遍の「いいね」を押して回った後に押し寄せるのは、「ところで自分はこの1年一体何をしてきたのか?」という自問である。

自分のこの1年間を一言で言い表すならば、「停滞」という言葉がふさわしい。この1年、何も成長せず、何も生み出さず、何事をもやり遂げぬままに終わってしまった。

そんな「停滞の1年」を、あえて振り返っておきたいと思う。念の為言っておくが、こんなポストは決して読むべきじゃない。だったら公開するなと言われるだろうが、それでも敢えて公開投稿をするのは、自戒と、記録の意味と、もしかしたら世の中には1人くらいは共感する奇特な人がいるかもしれないという希望的観測を込めてである。読んでいて気持ちの良い投稿ではないし、読むだけ時間の無駄なので、今すぐ引き返すことを強くお勧めする。

精神の破綻(加速)

コロナ禍は、確実に私の心身を蝕んだ。本来、私はコロナ禍の影響を最も受けにくい身の上だと思う。収入が減るわけではないし、本業は自宅でできなくはない。趣味の音楽活動は半年弱できなくなったものの、活動するのと同じくらい聴くのが好きなインドアな自分は、自宅で趣味も十分代替できたはずだ。それにも関わらず、生まれてこの方、これほど酷い精神状態に追い込まれた1年はなかった。自己嫌悪、消失願望がこれほど募った1年はなかった。そういう精神状態で、好きでやっていたはずの研究も、好きな分野の読書も、あるいは趣味だったはずの音楽にすら、全く身が入らなくなってしまった。結果として、何ら進展のない1年となってしまった。この社会情勢でもっと辛い境遇にある多くの人のことを考えれば、甘えとの誹りは免れないだろう。

いったい何があったのか。うまく言語化するのは難しいが、新型コロナやそれによる社会の変化が、私の精神を壊したというよりは、もともと進んでいた崩壊を加速させたのだと思う。この1年、今までより一層強く感じたのは、「孤独感」と、「共感・肯定が欲しい」という承認欲求だった。ただでさえずっと持ち続けてきたこれらの感情が、様々な事情で高まっていたところに、タイミング悪くコロナ禍がやってきて、追い打ちをかけられた。

 

振り返れば子供の頃からずっと、孤独感に苛まれてきた。今に至るまで一貫して最大の願望は、「人に共感されたい・人と共感し合いたい」というものである。…これが昔から全然できないのだ。周囲の人と「楽しい」が全然重ならない。そのくせ、たちの悪いことに、自分にとって「楽しい」ことを一人でするのは好きではなく、それを人と分かち合いたいという願望を常に伴っている。そういった願望が叶うことは、この25年間、家族とさえ、ほとんどなかったと言っていい。

人と重ならないのはなぜかといえば、自分が「楽しい」と感じるポイントがあまりにもずれすぎていて、かつ、狭すぎるからである。幼少期からずっとそうだ。自分では断片的にしか覚えていないが、幼稚園の頃から、周りの鬼ごっこなどの輪に加わらず、『世界国旗絵本』やら『世界地図絵本』やらばかりを眺め、それらについて話したがっては煙たがられる子供だったらしい。小学校に上がると、社会科ばかりにのめり込み、近所の子が遊びに来ている脇で歴史や地理、政治についての本やゲームばかりにのめり込んだ。

新聞の国際欄と政治欄を楽しそうに眺めるのが日課になったのは、小学4年くらいだっただろうか。この頃には、ほぼ全ての国連加盟国の国名、位置、首都、国旗が頭の中に入っていた。日本の歴代首相や、鎌倉・室町・江戸の将軍も覚えていた。それらを覚えることばかりが自分にとって楽しいことだったから、そればかり覚えて、周りの流行は全然知らない子供になっていた。

歴史や、政治、国際、社会情勢の話をするのが一番楽しいと感じていた。今もそうだ。だから政治学を選び、のめり込み、大学院まで来た。だが、そんな話を楽しくしたい人など、研究者ですらそれほど多くはいない。自分にとって「楽しい話題」を何となく話してしまうと、「もっと楽しい話しようよ」と言われてしまう。

音楽の趣味も、全く人に共感できず、また人から共感されなかった。家でTVの音楽番組が流れていても、知っている曲は1曲もないし、流れている曲は全く頭に入ってこない。 なので小3くらいまでは、そもそも音楽に興味を持たなかった。小3の時、なぜか小学校のマーチングバンドに入り、楽器をやるようになって、歌詞のない音楽、器楽は好きだという事に気づき、いわゆる「クラシック音楽」に興味を持つようになったが、周りとは全く重ならなかった。しかも聴く曲も、古典の王道の曲はほとんど聴かず、聴き初めの頃からなぜか暗い曲や、ブルックナーマーラーのような後期ロマン派、あるいは現代にばかり傾倒した。

これらの趣味を、「人と分かち合いたい」「周りの人に興味を持って欲しい」という身勝手な願望を、日に日に肥大化させていった。進学などの節目の度に「高校に行けば話が合う人いるかな」「大学なら同じ分野に興味を持つ人が入るんだから、きっと多くの人と共感し合えるはず」「大学のオケに入ったら好みが合う人がたくさんいるかも知れない」などといった幻想を抱き、その後勝手に幻滅することを繰り返した。そういうことを繰り返して、願望を捨てられればよかったのに、毎度願望を一層強めていった。

 

話題だけでなく、「楽しい会話」の定義もおかしい。私にとって一番楽しいのは、異なる考えを持つ人と考えをぶつけ合う会話である。だが、多くの人にとってこれは不快でしかない―それが理解できるようになったのもここ数年のことだ。

特にコロナ禍で、世間では「批判たたき」が目立った。私にとって、批判を封じようとする言動を見かけるときほど、悲しいことはない。もちろん、根拠のない中傷はダメだが、批判的な発言こそ創造の源だとずっと信じてきた。それだけに、この1年、批判者を「揚げ足取り」などと言って揶揄する言論が蔓延ったのは、耐え難かった。

 

 そんなわけで、「楽しい話」の中身もやり方もずれている私は、当然、人から嫌われ、遠ざけられるという経験を幾度となく繰り返す。自分の頭の中では、「さっきまで楽しい話してたのに何でいつの間にか怒られているんだろう」「いつも楽しい話してきたのになぜ遠ざけられているんだろう」だった。今振り返れば甚だ身勝手だが、特に大学までの自分にとってはそうだった。

飲み会や日常会話で、周りの話題についていけることは滅多に無い。そしてちょっと酒が入れば、趣味の話か、社会の話、それも意見をぶつけ合うような会話をしたくなる。当然、誰も乗ってこないか、怒られる。しかも認知能力の低い私は、そこで相手が喧嘩腰になると、「話に乗ってきている」と思って勝手に楽しんでいるものだと誤認してしまう。そうして気づかれれば、その場に呼ばれなくなる。

 

幾度とない人との摩擦を繰り返して、あまりにも遅すぎる自省をして、自分の言動が周りにとっては楽しくないことだと気付くと、今度は人と何も話せなくなってしまった。

 

…そんな自分への嫌悪と、過去にやらかしたあらゆる言動を思い出して「ああすればよかった…」などと今更考えても詮無いことにばかり頭が囚われ、日に日に何も進まなくなっていった。徐々にそうなっていたのが一昨年の12月から、昨年の3月頃であった。

帰省という最後の一撃

そんなことを痛感して、自己嫌悪を強めていたさなかに、コロナ禍がやってきた。ただでさえ話をしたがるくせに、したい話をできる相手ももたない自分にとって、大学も閉鎖されて自宅に引きこもる期間は、ほぼ完全な孤独を意味し、あまりにも大きな打撃だった。

ふとした拍子に自宅でこの世から消えてしまいたくなるのではないかという恐怖が常にあった。オンラインでのゼミや研究会への参加を楽しんで、かろうじて生き抜いていたが、いつまでも持つ自信はなかった。そこで、親からの誘いかけもあり、夏頃に3ヶ月ほど帰省することを選んだ。…この判断は大きな過ちだった。実家は私にとってもっと過酷だった。

 

久々に家族と顔を合わせて安心してしまった私は、テレビのワイドショーを見て、つい批判的なことを口走ってしまった。それは私にとって「楽しい会話」であり、「リラックス」の仕方であったし、またここ2年は、大学院という「批判的な言動」があまりマイナスに捉えられない空間に浸っていたために、家族との会話モードを忘れていたのである。…油断した。これが親や弟の怒りを買った。実家で安らぎたいという気持ちのあまり、安らいだが故に口をつく批判的な言動が、ことごとく家族に嫌がられた。そういう会話をしないと安らげない私と、そういう会話をされると安らげない、不快に思う家族とが、数ヶ月も同じ家で上手く暮らせるわけがなかった。2日に1回ペースで口論になる日々が続いた後、私は仮定ない平和のために「食卓でなるべく言葉を発しない」「用がなければなるべく部屋にいる」ことを心がけるようになったが、これはこれで、不機嫌な印象を与えてしまう。

もともと大学に入るまでの18年間も摩擦は多かったが、自分の中に摩擦への耐性があった。だが、上京後6年間で、摩擦への耐性がなくなっていたために、家族の反応がいちいち辛かった。

 

なかなか人と打ち解けられないだけに、「せめて一番身近な家族とだけは楽しい話を分かち合いたい」という感情がある。しかしそれは無理な話だ。実家でそれはできないし、かといって将来そんな人と出会える見込みもない。

 

実家にいる間に、自分がいかに邪魔者であるかを痛感した。だが同時に、家族に少しは分かってもらいたいという身勝手な願望も肥大化していった。もともと1年くらい実家にいるという選択肢も考えていたのだが、限界だと思い、8月末に唐突に実家を去って東京に戻った。「次いつ帰ってくるのか」という問いに「さあ…、あと2年後くらいじゃないの」などと投げやりな回答をして。

 

重い腰を上げて学生相談所に通ってみる

そんな状態で東京に戻ったものの、実家での時間がトラウマになっていて、何にも集中できない。研究には身が入らないし、趣味の音楽活動は多くが再開したものの、練習に行ってもやはり上の空になりがち。そんな状態が続いた。

11月、実家から事務的な内容で電話が来た時、動悸が止まらなくなってしまった。口論をしたわけでも、暗い話をしたわけでもなかったが、実家というもの自体が私の中で大きなトラウマになってしまっていた。実家が悪いわけではないということが頭では分かっているだけに、余計に辛かった。

気晴らしに、狂ったように演奏会に通ったが、これさえなかったら今自分はどうなっていたか想像するだけで恐ろしい。

 

こんな状態がこれ以上続いてはまずいと思い、学生相談所のカウンセリングに通うようになった。カウンセリングでは、私がここまで述べたようなことを、少しずつ解きほぐしてもらった。私が今何に悩み、ストレスを感じているのかが、少なくともこんな文章は書ける程度には整理されていった。つまるところ、「良き理解者」を求める感情が肥大化し、コロナ禍と相まって暴走していたということらしい。私の酷いずれ方を考えれば、「良き理解者」自体が幻想だということも理解できた。根本的な解決策はわからないままだが、実家への恐怖や、無駄に思い悩んで何もできない状態は、少しは和らいだ。行かないよりは行ってよかった。…どうしたらその幻想を捨てられるのか(あるいは幸運にも実現できるのか)が重要なのだが。

 

結局のところ、全部自分が悪い。それは自分が一番よく分かっている。だからこんなことを書きなぐっても何にもならないが、自戒と、記録のために、あえて公開にしておく。

25年間の自分の不徳によって積み重なったストレスが、コロナ禍で発現してしまい、停滞の1年になった。こんな記事を最後まで読んでしまった不幸な人には、世の中にはこんな感性と悩みを抱える馬鹿な人間もいるのだなと、笑い飛ばして頂ければ幸いである。

 

2021年度こそは、停滞ではなく、少しずつでも歩みを進める1年にしたいし、しなければならない。

2020年度に進捗はほとんどなかったが、その種は必死に蒔いてきた。誘いを受けて他大学のゼミに参加したり、オンラインの研究会で人脈を築いたり、趣味では新たな団体の立ち上げに携わったり。その種を芽吹かせる1年にしなければならない新年度は、学会報告や、新たな研究構想の提出などの予定がすでに決まっている(自分を奮起させるために強引に予定を入れた)。それらを着々と実行して、2020年度の分も、多くのものを生み出せる1年間にしていきたいと思う。

 

支離滅裂で脈絡もなく、読む価値のない文章を、酒の勢いに任せてまた世に放ってしまった。 こんな記事を書いてしまうのも、やはり「共感が欲しい」という幻想を未だ捨てきれていないからなのだろう。

…最後に。この記事を書きなぐったのはエイプリルフールです。エイプリルフールのネタ記事だということにしておきましょう。きっとそうです、多分…。