elgarian_tub’s diary

コンサートやオペラ、映画、書籍など、見聞きしたものの感想と、日頃思うことなどを、好きなように書き散らかします。筆者は社会科学系博士課程院生、アマチュア・オーケストラ奏者。ブログの内容は所属や本人の研究と何ら関係ありません(と書かなきゃブログも気軽にできないご時世)。

停滞の2020年度が終わった

年度が切り替わる節目のここ数日、FBやTwitterなどのSNSを開くと、多くの人の卒業・就職・異動などの報告や、1年間の振り返りのエントリーに溢れている。連絡不精で誰かと日常的に連絡を取り合うということがほとんどない私にとって、近況報告を眺められるのは嬉しいものだ。

だが、多くの人の近況を眺め、通り一遍の「いいね」を押して回った後に押し寄せるのは、「ところで自分はこの1年一体何をしてきたのか?」という自問である。

自分のこの1年間を一言で言い表すならば、「停滞」という言葉がふさわしい。この1年、何も成長せず、何も生み出さず、何事をもやり遂げぬままに終わってしまった。

そんな「停滞の1年」を、あえて振り返っておきたいと思う。念の為言っておくが、こんなポストは決して読むべきじゃない。だったら公開するなと言われるだろうが、それでも敢えて公開投稿をするのは、自戒と、記録の意味と、もしかしたら世の中には1人くらいは共感する奇特な人がいるかもしれないという希望的観測を込めてである。読んでいて気持ちの良い投稿ではないし、読むだけ時間の無駄なので、今すぐ引き返すことを強くお勧めする。

精神の破綻(加速)

コロナ禍は、確実に私の心身を蝕んだ。本来、私はコロナ禍の影響を最も受けにくい身の上だと思う。収入が減るわけではないし、本業は自宅でできなくはない。趣味の音楽活動は半年弱できなくなったものの、活動するのと同じくらい聴くのが好きなインドアな自分は、自宅で趣味も十分代替できたはずだ。それにも関わらず、生まれてこの方、これほど酷い精神状態に追い込まれた1年はなかった。自己嫌悪、消失願望がこれほど募った1年はなかった。そういう精神状態で、好きでやっていたはずの研究も、好きな分野の読書も、あるいは趣味だったはずの音楽にすら、全く身が入らなくなってしまった。結果として、何ら進展のない1年となってしまった。この社会情勢でもっと辛い境遇にある多くの人のことを考えれば、甘えとの誹りは免れないだろう。

いったい何があったのか。うまく言語化するのは難しいが、新型コロナやそれによる社会の変化が、私の精神を壊したというよりは、もともと進んでいた崩壊を加速させたのだと思う。この1年、今までより一層強く感じたのは、「孤独感」と、「共感・肯定が欲しい」という承認欲求だった。ただでさえずっと持ち続けてきたこれらの感情が、様々な事情で高まっていたところに、タイミング悪くコロナ禍がやってきて、追い打ちをかけられた。

 

振り返れば子供の頃からずっと、孤独感に苛まれてきた。今に至るまで一貫して最大の願望は、「人に共感されたい・人と共感し合いたい」というものである。…これが昔から全然できないのだ。周囲の人と「楽しい」が全然重ならない。そのくせ、たちの悪いことに、自分にとって「楽しい」ことを一人でするのは好きではなく、それを人と分かち合いたいという願望を常に伴っている。そういった願望が叶うことは、この25年間、家族とさえ、ほとんどなかったと言っていい。

人と重ならないのはなぜかといえば、自分が「楽しい」と感じるポイントがあまりにもずれすぎていて、かつ、狭すぎるからである。幼少期からずっとそうだ。自分では断片的にしか覚えていないが、幼稚園の頃から、周りの鬼ごっこなどの輪に加わらず、『世界国旗絵本』やら『世界地図絵本』やらばかりを眺め、それらについて話したがっては煙たがられる子供だったらしい。小学校に上がると、社会科ばかりにのめり込み、近所の子が遊びに来ている脇で歴史や地理、政治についての本やゲームばかりにのめり込んだ。

新聞の国際欄と政治欄を楽しそうに眺めるのが日課になったのは、小学4年くらいだっただろうか。この頃には、ほぼ全ての国連加盟国の国名、位置、首都、国旗が頭の中に入っていた。日本の歴代首相や、鎌倉・室町・江戸の将軍も覚えていた。それらを覚えることばかりが自分にとって楽しいことだったから、そればかり覚えて、周りの流行は全然知らない子供になっていた。

歴史や、政治、国際、社会情勢の話をするのが一番楽しいと感じていた。今もそうだ。だから政治学を選び、のめり込み、大学院まで来た。だが、そんな話を楽しくしたい人など、研究者ですらそれほど多くはいない。自分にとって「楽しい話題」を何となく話してしまうと、「もっと楽しい話しようよ」と言われてしまう。

音楽の趣味も、全く人に共感できず、また人から共感されなかった。家でTVの音楽番組が流れていても、知っている曲は1曲もないし、流れている曲は全く頭に入ってこない。 なので小3くらいまでは、そもそも音楽に興味を持たなかった。小3の時、なぜか小学校のマーチングバンドに入り、楽器をやるようになって、歌詞のない音楽、器楽は好きだという事に気づき、いわゆる「クラシック音楽」に興味を持つようになったが、周りとは全く重ならなかった。しかも聴く曲も、古典の王道の曲はほとんど聴かず、聴き初めの頃からなぜか暗い曲や、ブルックナーマーラーのような後期ロマン派、あるいは現代にばかり傾倒した。

これらの趣味を、「人と分かち合いたい」「周りの人に興味を持って欲しい」という身勝手な願望を、日に日に肥大化させていった。進学などの節目の度に「高校に行けば話が合う人いるかな」「大学なら同じ分野に興味を持つ人が入るんだから、きっと多くの人と共感し合えるはず」「大学のオケに入ったら好みが合う人がたくさんいるかも知れない」などといった幻想を抱き、その後勝手に幻滅することを繰り返した。そういうことを繰り返して、願望を捨てられればよかったのに、毎度願望を一層強めていった。

 

話題だけでなく、「楽しい会話」の定義もおかしい。私にとって一番楽しいのは、異なる考えを持つ人と考えをぶつけ合う会話である。だが、多くの人にとってこれは不快でしかない―それが理解できるようになったのもここ数年のことだ。

特にコロナ禍で、世間では「批判たたき」が目立った。私にとって、批判を封じようとする言動を見かけるときほど、悲しいことはない。もちろん、根拠のない中傷はダメだが、批判的な発言こそ創造の源だとずっと信じてきた。それだけに、この1年、批判者を「揚げ足取り」などと言って揶揄する言論が蔓延ったのは、耐え難かった。

 

 そんなわけで、「楽しい話」の中身もやり方もずれている私は、当然、人から嫌われ、遠ざけられるという経験を幾度となく繰り返す。自分の頭の中では、「さっきまで楽しい話してたのに何でいつの間にか怒られているんだろう」「いつも楽しい話してきたのになぜ遠ざけられているんだろう」だった。今振り返れば甚だ身勝手だが、特に大学までの自分にとってはそうだった。

飲み会や日常会話で、周りの話題についていけることは滅多に無い。そしてちょっと酒が入れば、趣味の話か、社会の話、それも意見をぶつけ合うような会話をしたくなる。当然、誰も乗ってこないか、怒られる。しかも認知能力の低い私は、そこで相手が喧嘩腰になると、「話に乗ってきている」と思って勝手に楽しんでいるものだと誤認してしまう。そうして気づかれれば、その場に呼ばれなくなる。

 

幾度とない人との摩擦を繰り返して、あまりにも遅すぎる自省をして、自分の言動が周りにとっては楽しくないことだと気付くと、今度は人と何も話せなくなってしまった。

 

…そんな自分への嫌悪と、過去にやらかしたあらゆる言動を思い出して「ああすればよかった…」などと今更考えても詮無いことにばかり頭が囚われ、日に日に何も進まなくなっていった。徐々にそうなっていたのが一昨年の12月から、昨年の3月頃であった。

帰省という最後の一撃

そんなことを痛感して、自己嫌悪を強めていたさなかに、コロナ禍がやってきた。ただでさえ話をしたがるくせに、したい話をできる相手ももたない自分にとって、大学も閉鎖されて自宅に引きこもる期間は、ほぼ完全な孤独を意味し、あまりにも大きな打撃だった。

ふとした拍子に自宅でこの世から消えてしまいたくなるのではないかという恐怖が常にあった。オンラインでのゼミや研究会への参加を楽しんで、かろうじて生き抜いていたが、いつまでも持つ自信はなかった。そこで、親からの誘いかけもあり、夏頃に3ヶ月ほど帰省することを選んだ。…この判断は大きな過ちだった。実家は私にとってもっと過酷だった。

 

久々に家族と顔を合わせて安心してしまった私は、テレビのワイドショーを見て、つい批判的なことを口走ってしまった。それは私にとって「楽しい会話」であり、「リラックス」の仕方であったし、またここ2年は、大学院という「批判的な言動」があまりマイナスに捉えられない空間に浸っていたために、家族との会話モードを忘れていたのである。…油断した。これが親や弟の怒りを買った。実家で安らぎたいという気持ちのあまり、安らいだが故に口をつく批判的な言動が、ことごとく家族に嫌がられた。そういう会話をしないと安らげない私と、そういう会話をされると安らげない、不快に思う家族とが、数ヶ月も同じ家で上手く暮らせるわけがなかった。2日に1回ペースで口論になる日々が続いた後、私は仮定ない平和のために「食卓でなるべく言葉を発しない」「用がなければなるべく部屋にいる」ことを心がけるようになったが、これはこれで、不機嫌な印象を与えてしまう。

もともと大学に入るまでの18年間も摩擦は多かったが、自分の中に摩擦への耐性があった。だが、上京後6年間で、摩擦への耐性がなくなっていたために、家族の反応がいちいち辛かった。

 

なかなか人と打ち解けられないだけに、「せめて一番身近な家族とだけは楽しい話を分かち合いたい」という感情がある。しかしそれは無理な話だ。実家でそれはできないし、かといって将来そんな人と出会える見込みもない。

 

実家にいる間に、自分がいかに邪魔者であるかを痛感した。だが同時に、家族に少しは分かってもらいたいという身勝手な願望も肥大化していった。もともと1年くらい実家にいるという選択肢も考えていたのだが、限界だと思い、8月末に唐突に実家を去って東京に戻った。「次いつ帰ってくるのか」という問いに「さあ…、あと2年後くらいじゃないの」などと投げやりな回答をして。

 

重い腰を上げて学生相談所に通ってみる

そんな状態で東京に戻ったものの、実家での時間がトラウマになっていて、何にも集中できない。研究には身が入らないし、趣味の音楽活動は多くが再開したものの、練習に行ってもやはり上の空になりがち。そんな状態が続いた。

11月、実家から事務的な内容で電話が来た時、動悸が止まらなくなってしまった。口論をしたわけでも、暗い話をしたわけでもなかったが、実家というもの自体が私の中で大きなトラウマになってしまっていた。実家が悪いわけではないということが頭では分かっているだけに、余計に辛かった。

気晴らしに、狂ったように演奏会に通ったが、これさえなかったら今自分はどうなっていたか想像するだけで恐ろしい。

 

こんな状態がこれ以上続いてはまずいと思い、学生相談所のカウンセリングに通うようになった。カウンセリングでは、私がここまで述べたようなことを、少しずつ解きほぐしてもらった。私が今何に悩み、ストレスを感じているのかが、少なくともこんな文章は書ける程度には整理されていった。つまるところ、「良き理解者」を求める感情が肥大化し、コロナ禍と相まって暴走していたということらしい。私の酷いずれ方を考えれば、「良き理解者」自体が幻想だということも理解できた。根本的な解決策はわからないままだが、実家への恐怖や、無駄に思い悩んで何もできない状態は、少しは和らいだ。行かないよりは行ってよかった。…どうしたらその幻想を捨てられるのか(あるいは幸運にも実現できるのか)が重要なのだが。

 

結局のところ、全部自分が悪い。それは自分が一番よく分かっている。だからこんなことを書きなぐっても何にもならないが、自戒と、記録のために、あえて公開にしておく。

25年間の自分の不徳によって積み重なったストレスが、コロナ禍で発現してしまい、停滞の1年になった。こんな記事を最後まで読んでしまった不幸な人には、世の中にはこんな感性と悩みを抱える馬鹿な人間もいるのだなと、笑い飛ばして頂ければ幸いである。

 

2021年度こそは、停滞ではなく、少しずつでも歩みを進める1年にしたいし、しなければならない。

2020年度に進捗はほとんどなかったが、その種は必死に蒔いてきた。誘いを受けて他大学のゼミに参加したり、オンラインの研究会で人脈を築いたり、趣味では新たな団体の立ち上げに携わったり。その種を芽吹かせる1年にしなければならない新年度は、学会報告や、新たな研究構想の提出などの予定がすでに決まっている(自分を奮起させるために強引に予定を入れた)。それらを着々と実行して、2020年度の分も、多くのものを生み出せる1年間にしていきたいと思う。

 

支離滅裂で脈絡もなく、読む価値のない文章を、酒の勢いに任せてまた世に放ってしまった。 こんな記事を書いてしまうのも、やはり「共感が欲しい」という幻想を未だ捨てきれていないからなのだろう。

…最後に。この記事を書きなぐったのはエイプリルフールです。エイプリルフールのネタ記事だということにしておきましょう。きっとそうです、多分…。 

地元で2ヶ月研究生活をして

 私は東京の大学に所属する社会科学系の博士後期課程大学院生だ。このコロナ禍で授業も研究活動も全てオンラインであることもあり、またお盆だけでも実家で過ごせるようにしたいとの思いもあり、7月の頭から2ヶ月間、東北の実家に帰省していた。

 この帰省は、単にコロナ禍かつオンライン化に対応した一時的なものに留まらず、将来的に1~2年程度実家に帰って研究をすることを検討しての実験でもあった。なぜなら院生は低所得だし、実家にいれば(相応の費用は払うとしても)東京よりは何もかもが安上がりだからである。また、現在は幸いにも学振をもらっているが、それが切れるまでに学位が取れなかったり、生計を立てる見込みが立たなかった場合(その可能性は高い)、東京で一人暮らしを続けるコストはあまりにも高い。

 もちろん、この状況下で肉親の顔を見たいとか、地元の空気や食べ物が好きだとか、安らぎを求めていた側面もあった。…だが、この2ヶ月、私が最も感じたのは、率直に言って「疲れ」と「自己嫌悪」だった。

 この投稿では、私が2ヶ月間で感じたことを、あえてなるべく包み隠さずに書く。それが例えば他の地方出身院生の参考となったり、誰かが考える切っ掛けになったり、あるいは私を知る人が私の人間性を理解する助けとなったりといった効用があるのかは分からない。が、自分の備忘録として残しておくと同時に、こういう悩みを抱えてしまう変わり者も世の中には一人くらいいるのだと知ってもらう契機になるかもしれないと思い、あえてオープンな形で文章化しておきたい。

 以下の文章は、いくぶん家族に対する非難めいたものを感じ取られるかもしれないが、家族や他の地元の人々、知人友人を貶める意図はないし、家族を嫌っているわけでもない。このことをまずご理解いただきたい。おそらく私自身の受け止め方、悩み方があまりに特殊なのであって、誰が悪いということではない(おそらく多数決を取れば圧倒的に悪いのは私だ)。贅沢な悩みだということも承知である。この投稿を読もうとする人がいったいどれほどいるのかはわからないが、こんな悪趣味な投稿を最後までお読みになる方がいるとすれば、上記を念頭に置きながらお読み頂ければ幸いである。

 

地元に帰って良かったこと

①オンライン化により支障はあまりない

 研究活動に必要なものは、COVID-19対応でほとんどオンライン化されており、学外からでもアクセスできる。文献やデータベース等へのアクセスは大学VPNを介すればどこからでも可能で、授業や研究会なども大半がオンラインで行われている。むしろ、国内外の研究者との気軽なやり取りは以前よりも増えている。したがって、実家にいようが大学付近にいようが、できないことはあまりない。

 

②生活面

 何よりも生活費が浮く。アパートを解約したわけではないので家賃は払ったし、食費等込みで多少は親に納めたが、それでもなお様々な費用は浮いた。また、実家にいると生活リズムが整う。大学院生の一人暮らしは乱れた生活になりがちだが、同居人がいることで矯正される。

 

③趣味もまあまあできる

 私の地元は地方都市にしてはハード・ソフトとも充実しているので、文化的なものにも適度に触れられる。私の趣味はクラシック音楽鑑賞だが、それも中核市レベルでは珍しく可能という恵まれた環境にある。東京よりも公演数は少ないので、珍しい作品を好む私には若干物足りない面もあるが。

 アパートではできない家で楽器を吹くというのも思う存分できる環境だった。タスクが重なっていてあまり時間は取れなかったが。

 また適当な散歩をして歴史的建造物などに触れることもできる。これも私にとっては嬉しいこと。

 

④食べ物は旨い

 ラーメン党のわたしにとって、ラーメン王国の地元は極楽(太るが)。東京のラーメン有名店でなかなか満足できたことがないので、地元のラーメンを食べるとほっとする。蕎麦屋にもラーメンがあるのがデフォルトだし。

 米も果物も肉も野菜も旨い。食べ物に関してはいくらでも御国自慢ができる。

 

⑤お盆の墓参りができた

 墓参りと初詣へのこだわりは何故か昔から親世代よりも強い人間なので、盆に墓参りができないというのはかなりつらかった。東京にいたら盆に帰省するのが難しくなるかもしれないと思い、早めに帰った上で最初の2週間は家に籠もったが、この点は先見の明があったと思う。

 

つらかったこと

①大学にいけないことによる不便

 学内施設が身近にないのはやや不便。ちょっと読みたい文献があっても図書館や生協書籍部、また研究室や自宅の蔵書へのアクセスがない。

 また、私の部局では公費で物品購入する際は原則として見積書等が必要で、大学生協等の手続きに慣れたところで買うのが一般的なのだが、地元にいるとそうした執行手続きができないのですべて自腹になる。さらに、実家で研究をこれまでしたことがなかったので、多少の機材は投資が必要になった。

 加えて、簡単な研究アイディアや隣接分野の研究動向、研究方法、最近読んだ文献の感想などの相談を気軽に学友とできる環境は、院生にとっては重要だと痛感した。大学の院生室は共用施設なのでそれができるが、実家にいる限りはオンラインでわざわざ場を設定しなければならない。

 

②TVのワイドショーが垂れ流されている

 実家はTVがずっと流れている家庭である。これがつらいという感覚はなかなか理解されにくいと思うが、専門家軽視のワイドショーが垂れ流されているのは、一応専門家を目指している者の端くれとしてはとても耐え難い。

 ワイドショーも批判的に見る材料として触れるならいいと思うのだが、見ながら批判的なことをしゃべると(それが私にとっての「楽しい会話」なのだが)とめんどくさがられたり、怒られたりする。

 

③周囲に「楽しい」が重なる人が全くいない

 何よりもこれが本当につらかった。趣味(音楽と社会科学)に全振りして生きてきたので、家庭で一致する話題が一つもないし、好きなことを話してしまうと食卓が白けたり怒られたりするので黙っているしかない。

 昔から私だけ別の方向を向いてはいたけれども、大学入学以降は心置きなく好きなものに全振りできたし、何か共通するものがある人とばかり関わってきたから、以前より趣味以外の会話ができなくなっている。

 例えば昨今なら趣味の音楽に加えて、日本の政治情勢やコロナ禍での各国政府の政策、ベラルーシ騒乱、マリのクーデターなどが私にとっての「楽しい話題」あるし、私にとって「気楽で楽しい会話」とは、議論を重ねたり、何かを探求したりすることである。しかし、そんなものを楽しい会話だと捉える人は当然家にはいない。テレビで稀に興味のある話題が出たときに気楽に感想を述べても、それが嫌がられることのほうが多い。私の「楽しい」と家族の「不快」がほとんど重なっているのである。

 一方で、家族にとって「楽しい」会話は私にとって楽しくないことが多い。普段ほとんどTVを見ないので芸能人や歌手の話をされても知らないし、食卓では黙っているしか無い。しかしそれはそれで不機嫌に映ってしまう。

 もちろん、私の「楽しい」が明らかにずれているということなのだと思う。考えてみればこの半年程度は、出歩かなくなった結果、大学院生や研究者としか話すことがなかった。エコーチェンバーにどっぷりと浸かりきったこの半年の生活で、それ以外の人との話し方を忘れてしまった気がする。元々コミュニケーション能力に難があったと思うが、さらに悪化した。

 大学院は批判的思考を鍛える場、楽しむ場だと思っている。一方、少なくとも我が家は、そういったものを忌避する場、楽しいと感じる人がいない場である(それが標準であろう)。前者での人間関係に浸れば浸るほどに、後者の空間に身を置くのが下手になっていく。普段から住んでいればスイッチの切替もできるのだろうが、元々年に2回程度しか帰省もせず連絡もあまり取らない自分が久々に帰ってきていきなり数ヶ月滞在すると、その差に心身がついていけないのである。

 タチの悪いことに、私は「好きなことを話すのが好き」で「共感されたい欲が強い」人間なので、なおさらつらい。

 …などと自分でも書いていて相当に面倒で嫌な人間だと思う。そしてこんなことに毎日のように思い悩み3日に1回は摩擦を生じさせ、自分はなんて邪魔な人間なんだろうかとさらに沈む。…本当に面倒なやつだな。

 基本的に人から共感されない要素の塊なので、家族を始めとする一番身近な人には多少なりとも共感されたいという気持ちがあるのだが、まあ無理だということなのだろう。であればずっと独り暮らしが一番望ましいのかもしれない。

  

 こんなことを書いておいて説得力はないだろうが、家族が嫌いなわけでは全くなくて、相性の問題に過ぎない。でも、トータルで20:80で「つらい」が勝ってしまった。それがこの2ヶ月間の率直な感想だ。実家でこんな感想を持つなんて、親不孝にも程がある…。

 

 そんなわけで、私はコロナ禍が落ち着いたとしても暫くは帰省しないかもしれないし、帰るとしても日帰りか1泊程度になるのだろう。どうしてこんな人間に育ってしまったのだろうなあ…。

 

 ちなみに、私が一番強い関心を持っている社会問題は地域格差。だから本当なら地元の役に立ちたいという気持ちを強く持っているのだが、自分の仕事や能力を地元に役立てる方法は全く思いつかない。というか、こんな投稿をしてしまう人間を必要としてくれる場所が地元にあるとは思えない。こうした葛藤がより深まるのも、地元にいるときのつらさである。

映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観て

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大島新監督のドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』、監督舞台挨拶付きの上映を観た*1

香川1区の野党議員、小川淳也代議士(5期・比例復活・現在無所属/立憲会派所属)を17年に渡って追った作品。彼は政治ウォッチャーの一部では注目されてきた人で、2019年の統計不正問題において、国会で具体的なデータを示しながら鋭く迫る質疑は一部で「統計王子」などと話題になった。

などというと、政治に関心のある人、それもどちらかといえば野党寄りの人が観る作品だと思われてしまうかもしれないが、決してそうではない。

この作品を一言で言うならば、「高い志を持った立派な善人だが、権力欲が足りず環境も悪くて出世できないために、志をなかなか実現できない人」の物語。こういう報われない人、どこの組織にもいるのではないか。この映画は、そんな人がなぜ報われないのか、本人の問題なのか、理想主義者は報われなくても仕方がないのか、といった普遍的で重い問いを、投げかけているのだ。

崇高な理想を抱いてエリートコースを退官した若手政治家、だが…

監督は小川の取材を、2003年の初出馬から行っている。

小川は高松市出身、高松高校・東大法学部を経て自治省に入省。2003年に退職して、香川1区で民主党から衆院選に出馬する。実家はごく普通の地元の美容室で、昔から政治家になろうとしたことはなく、官僚として天下国家を考えたいと言ってきた。

出馬当時は小泉人気の絶頂期。また香川1区は地元の四国新聞西日本放送オーナー一族で世襲三世議員・平井卓也の強固な地盤*2。小川には自治官僚として活躍の場があった。そんな状況で敢えて退官して、明らかに不利な地元選挙区に野党から出馬する。

当時32歳の小川は監督に向かって言う。

政治家になりたい、と思ったことは一度もないんですよ。“なりたい”ではなく、“ならなきゃ”なんですよ。やらざるを得んじゃないか、という気持ちなんです。

この人には明らかに権力欲・出世欲はない。「こんな政治家がいたのか」と思わされる。小川は官僚として働いているうちに、その限界に気づき、政治家になって変えなければならないと思うに至ったのだという。省庁のトップは名目上大臣になっているが、実際にはトップは事務次官であり、事務次官より偉いのがOBなので、連綿と続く政策が変わらないのだと。だから、政権交代によってそのシステムから変えなければならないのだと。

崇高な理想を掲げ、おそらくは心の底からそれを信じ、自らの全てを擲って出馬した人。それがここで描かれる初出馬当時の小川だ。だが、結果は落選。その後05年郵政選挙で比例復活初当選、09年政権交代選挙で選挙区初勝利、そして12,14,17年は比例復活で現在当選5回。

比例復活の場合、選挙区での地盤固めに苦労しなければならずに東京での人脈を広げきれず、また党のおかげでかろうじて当選できている立場でもあるため、党内外での発言力は著しく弱まる。そのため、表舞台になかなか立てず、掲げた理想を実現できない。

小川は、政策には自信を持っており、「もしこれを代表や幹事長、閣僚が言ったら必ずインパクトがある」と言うのだが、小川の立場では全くインパクトがない。

また小川は、スキャンダル追求にはあまり関心がなく、国会で鋭くデータを持って追求し、政権と正面から対峙して再び政権交代することを望んでいることが言動の端々から感じられる。だが、下野した後の民主党民進党では、発言力のなさと党の方向性によって、そのような質疑がなかなかできず、葛藤してきた。

 

心に残る小川の言葉

心に残った小川の言葉が2つある。

政治家がバカだとか、政治家を笑ってるうちは、この国は絶対に変わらない。だって政治家って、自分たちが選んだ相手じゃないですか。自分たちが選んだ相手を笑ってるわけですから、絶対に変わらないと思ったんですよね。

だから行動するのだと。これは、左右問わず、色んな人に聞かせてあげたい。小川の趣旨とは少々違うと思うが、私は、「アベガー」も「ミンシュガー」も本質は同根で、この国の政治を本気で良くしようなどとは思っていないのだと考えている。だって、政治を変えるためには、自分と違う考えの持ち主をも説得しながら、真摯に行動することが必要なのだから。自分を支持するものをバカにされながら話を聞く人などいない。

もう一つ。

何事もゼロか100じゃないんですよ。何事も51対49。でも出てきた結論は、ゼロか100に見えるんですよ。51対49で決まってることが。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま。

よく、民主主義は多数決だと言う人がいる。これは半分正しくて、半分間違っている。なぜなら、多数決でのマイノリティに真摯に向き合い、その権利を保護しなければ民主主義とは言えないからだ。世の中には構造的に常にマイノリティになる人もいる*3。あるいは、少数意見でも真摯に考えている人がいる。そういう人まで背負うのが政治なんだと。これは、今の政治に明らかに足りないもののように思う。

 

立派だが、政治家に向いているのか?

こんなことを口にする小川の姿に、初めは「立派な人だ、こんな人が政治家として活躍してくれれば」と思う。だが、ずっと観ていると、次第に「この人は立派だけれど、政治家には向いてないんじゃないか」と思わされてくる。なぜなら小川には、政治家として志を遂げるのに必要な、権力欲や強かさが全くない(ように見える)。

小川の両親や妻も、同じ疑問を口にする。映画の終盤、監督はついに本人に問う。「あなたは政治家に向いていないのではないか」と。小川は、それを否定しない。

 

「普通の全うな人」という人物像の裏返しとして、小川には気になる点もある。人としての常識はあっても、政治家としての常識にはあまりに欠けるのではないかと見える言動が目につくのだ。

混乱した17年衆院選希望の党の低迷に喘ぐ苦難の選挙戦最中、小川は小池への不信感や希望の党への違和感を口にしながら、「打倒小池」などと口走るのだ。仮にも自分が公認申請した党の代表にそんなことを言えば、自己矛盾である。有権者の前ではないとはいえ、カメラが向けられている中で党所属議員が発する言葉ではない。

また映画には登場しないが、2018年9月、無所属だった小川は、あろうことか国民民主党代表の玉木雄一郎政治資金パーティーで来賓として挨拶した際、唐突に「明日から所属会派が分かれることになる」と述べ、翌日からの立憲会派入りを表明したというのだ*4。見方によっては、盟友の顔に泥を塗る行為と言えなくもない。だがおそらく小川としては、これで玉木に仁義を切ったつもりなのだろう。それは小川の真っ直ぐすぎる人となりを反映した行動であり、それが彼の良さでもあるのだが、政界や支援者などからどう見られるかという視点は、明らかに欠けている。

そんな、まっすぐで不器用な人柄からは、たしかに総理大臣になれない理由も分かる。だが、そういう人が活躍できない世の中が嫌だからこそ、こういう人に期待したのではなかったか。こういう人に何かを期待する時は期待して、後は簡単に切り捨てて良いのか。政治家向きとはなにか、政治家に私達が何を求めているのか、そしてこの社会で報われない人について、考え直させられる。

 

大混乱の17年衆院選、巻き込まれる家族

前代未聞の混乱にあった2017年総選挙前後の記録としても貴重な映像だ。小川は前月の民進党代表選で当選した前原誠司の最側近。代表選の政策を練り上げ、前原代表の下で党役員室長に就任する。小川がほぼ初めて、党内で出世した瞬間だ。

しかしそのわずか1ヶ月後、支持率が低下した安倍政権は解散に打って出る。これに対して、小池旋風に危機感を抱く前原は、党まるごと希望の党へ合流することを決断。しかし、当初台風の目だった希望の党は、小池のいわゆる「排除」発言で急転直下低迷し、また民進党議員は公認されるかどうかも判然としないままに選挙戦がスタートする*5

 

希望の党の公認を巡って民進党若手・中堅議員が皆揺れる中で、小川も深く葛藤しながら、公認申請を決断する。「前原さんほど右でもなく、枝野さんほど左でもない。その真中で繋ぎ合わせる役目を果たしたい」と語り、自他ともに認めるリベラル中道政治家である彼が、公認申請した理由はいくらでも正当化できる。前原最側近としての責任、玉木への仁義、野党一本化…。だがつまるところ、小川の弱さといえなくもない。 

このような葛藤に直面した議員は、当時各地にいたはずだ。

小川は公認申請を出すまでも、出した後も葛藤を見せる。苦し紛れとでも言うべきか、中盤には「党が変わっても小川は変わらない」をキャッチフレーズとするポスターを急遽使い始める。確かに映像中の小川自身は、変節していないように見える、が。選挙戦中に、監督に「無所属の方が良かったと思うか」と言い出す場面もある。

 

選挙戦は厳しい場面の連続だ。03年の初出馬時にも、当時6歳と5歳の娘が、選挙を支える母から引き離されて泣きながら祖母に引き取られる場面や、妻が無理に納得させながらも、「未来も大事だけど明日の生活も大事…」とぼやく場面などが挿入されていた。政治家になるというのは、家族を巻き込むということなのだ。未来のために頑張ると言っても、明日の生活を犠牲にして支える人が周りにはいるのだ。

 

だが17年の過酷さはそんなものではない。20歳と19歳になった娘と妻は「娘です」「妻です」のタスキを初めてかけて、小川の選挙運動を全力でサポートする。

娘たちは、「政治家の妻は嫌だ」と言って、父が政治家で苦労したエピソードを語りながらも、必死に支えようとする。

そんな家族とともに街頭に繰り出して、娘の前で地元の男性に罵倒される。「安保法制に反対しとったじゃろうが、イケメンみたいな顔して、心は真っ黒か」。口は汚いが、間違ったことは言っていない。選挙とは残酷なもので、小川はこんな声に対しても「真摯に受け止めて全力で…」等と受け答えをする。家族の目の前で。

選挙戦の映像、特に家族の姿に、思わず涙が溢れた。政治家のドキュメンタリーで泣くとは思わなかった。井手英策の応援演説も号泣もの。この選挙戦シーンだけでも、観る価値がある。

そんな苦労を重ねて、結果はわずか2000票差での選挙区敗北、比例復活。 

 

小川はリベラルな政治家だ。リベラリズムというのは本来、家ではなく個人の自由を大事にする思想であって、父や夫の選挙戦を何としても支えなければならないという構図はその思想に反するはずだ。でも、小川ですら、家族を巻き込まないことはできないのだ…。

この点に、日本の選挙、特に地方の選挙区における過酷さ、古臭さ、限界を見て取ることもできる。日本の選挙では、妻や秘書が国会開会中は地元で基盤を固め、選挙戦では事務所や街頭で全力で支えることが当たり前になってしまっている*6

 

玉木雄一郎小川淳也ープロとアマチュア*7

映画のメインではないのだが、政治オタクとしては、隣の選挙区の民主党出身議員である玉木雄一郎代議士(香川2区・4期・現国民民主党代表)との対比が面白かった。田崎史郎や本人も語っているが、同じような経歴ながら玉木と小川は全くタイプの違う人。二人共香川県を地盤とするほぼ同世代で、高松高校・東大・霞が関民主党衆院議員という経歴は共通。しかし、玉木は2009年以来4期連続で選挙区当選と党内での活躍を重ね、党代表にまでなった。一方で小川は、2009年以外はすべて比例復活で、そのため党内での発言力も弱く、地元の基盤固めにも忙しく、党内でほとんど出世できない。18年に希望の党を離党してからは無所属の陣笠議員でしかない。

 

玉木という人も、ユーチューブやSNS、演説では政治家らしくない庶民派に見えるのだが*8、二人並ぶと玉木はプロの政治家、小川はアマチュアに見えてしまう(5期の議員にこう言ってはなんだが)。おそらくそこが小川の良さでもあるのだが、どんなに良い志を持っていてもそれを実現する力が伴わければ…と思わなくもない。

映画で小川と玉木が並んで登場する場面は1度。あの17年総選挙の際、地元・香川の民進党議員として二人並んで、離党の上希望の党から出馬することを表明した記者会見のシーンだ。その前後、小川の公認申請への葛藤が描かれる。一方の玉木は、自分たちの行動がどう思われるかを考え、小川に対して「希望の党に自ら行ったと見えない方がいい」などとアドバイスを送る。それを見た移動車中の小川は、「そんなのどうでもいい」と言い放ちながら、希望の党への躊躇を見せる。記者会見でも、ほとんどの質問に先に玉木が明瞭に答え、小川は躊躇っているようにも見える硬い表情のまま、続いて答える。回答の一つ一つも、まるで自分自身を無理やり納得させているかのようなものだった。

 

もう一つ。玉木は地元の話や地域格差、地方の人口減少などの話を頻繁にする。一方、小川は地元の話は全然しない。そこには私は違和感を覚える。地方出身で東京の大学に行った私は、県と出身とはいえ、東京でしかできない様々な活動に触れ、帰省するたびに地元の過疎やその進行を見せつけられ、地域格差に対する行き場のない憤りを覚える。その憤りを主なエネルギー源として行動しているようなところすらある。だから、玉木の言葉はとても良く刺さり、率直に言って地方と東京の双方を分かる政治家だという期待感を持ってもいる(支持まで踏み込んでいるわけではない)。

一方小川は、立派な政策を持っているけれども、そういった地方の話をしないし、選挙区である地元に何をしてくれるのか、地元の問題をどう考えているのかが見えてこない。国政全体の未来を変えようとしてくれるのは立派だが、明日の自分たちの生活に何をしてくれるのか?と思う地元有権者も多いのではないか。

象徴的なエピソードが本人と田崎史郎の会話で登場する。玉木は地元の陳情をなんでもやろうとするが、小川は特に若い頃、陳情に対して財源論などを語って突き返してしまっていたという。最近はちゃんと話を聞くようになったとは言うが、その本質はおそらく変わっていないように見える。これも彼の率直さを反映して入るのだが、悪く言っててしまえば、地に足がついていないし、庶民の生活を本当に見ているのかという疑問も湧いてしまう。こういうところで玉木や前原にせよ、自民党にせよ、政治のプロと小川の差が見えてしまう。

大島監督の舞台挨拶では興味深いエピソードを聞いた。2019年の統計不正問題の際、彼の質疑が一部で話題になったが、彼の鋭い質疑に対して、いつも民主党の同僚からはほとんど褒められず、自民党の重鎮ばかりから「良い質問だったよ」と声をかけられるのだという。保守の懐の深さ、与党の余裕、野党の内ゲバ癖など、彼が野党内ですら活躍できない要因と、なぜ一強多弱が続くのかが垣間見える。

 

政治学と政治家

日本政治ではないとはいえ、政治学を一応学んでいる身としても色々と考えさせられる。

「なぜ彼が総理大臣になれないのか」に対する直接的な答えは、「比例復活だから」であり、「保守王国・香川で中道左派的だから」であり、「地盤・看板・鞄がないから」であり、「対立候補世襲三世・地元新聞とテレビのオーナー一族の強固な地盤を持つ平井卓也だから」である。多数比較の理論的な政治学の視点からもそういった答えが出てくるだろうし、それは統計などでおそらく簡単に実証できるし、的外れでもないと思われる。

だが、小川個人を17年追った本作品を観ると、「果たしてそれだけなのか?」と思い直さざるを得ない。彼の個性というもっと個別的な要因と、その個性が活躍には繋がらない構造的な要因とが、複雑に絡み合っている。それはおそらく香川1区や旧民主党系にとどまらず、様々な所にある問題なのだろう。

実証政治学は、分析者が完全に中立であることは不可能であると自覚しながら、それでもなるべく規範的な問い(〜べきか?)からは距離を置いた分析に徹する(と思う)。残念ながらその価値は必ずしも誰もが理解してくれるわけではないが、それは規範的な議論をする前段階としても重要なものだし、私はその価値を信じている。しかし、である。フィルムを通して藻掻く小川の姿を目の当たりにすると、こういう資質ある個人を見ずにデータ上の客観的分析に徹するだけでよいのか?という疑問を持たざるを得ない。研究者がなすべきは分析によって考えるための材料を提供することであって、その先は市民に判断を委ねるのが、民主主義社会でのあるべき研究者像だと私は信じている。だが…。この先の答えはまだ出ないのだが、学問への向き合い方を考えさせられた。

 

大島監督の舞台挨拶では、「なぜ君は」というタイトルは、小川個人に限らず、小川のような人がなぜなれないのか、そしてなぜ君たちはこのような人を総理大臣にできないのかという意味が込められているとのコメントがあった。

 これは普遍的な問いなのだ。後半は私の個人的な趣向や経験に基づくあまり普遍的でない感想を書いていしまったが、これは広く観られるべき作品だと思う。小川や旧民主党をどう思っていようが関係ない。どうかこの作品が、広く、できれば政治に関心のない人や、与野党支持を問わず、幅広い年代の人に、観られますように。

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*1:映画公式サイト http://www.nazekimi.com/

*2:現社長は平井の弟。地元テレビと新聞を押さえる政治家が強いのは言うまでもない。作中には、四国新聞が平井に比べて小川に悪印象を与えているようにも見える微妙な報道が登場する。

*3:民族、言語、宗教、社会階層、障碍など

*4:朝日新聞 https://www.asahi.com/articles/ASL996QCQL99UTFK008.html (2020年7月20日最終閲覧) 

*5:世間一般と違い 、この当時の前原の決断が誤っていたかどうかは、私は今でもわからないと思っているが、それは映画の外の話

*6:家族が巻き込まれる模様はこの映画で特に泣けるポイントだが、それは美談にしていて良いのか?というところまで踏み込んでほしかったと思わなくもない。そこまですると、本映画の主題からはずれていってしまうのだろうが…。

*7:20年7月11日追記。投稿後、本節について、玉木と小川の対立候補の強弱差は重要だとのご指摘を頂いた。小川の対立候補である平井卓也は記事中でも触れたように自民党内でも強固な地盤を誇る。一方、香川2区の自民党候補は、かつて連続当選していた木村義雄が2009年総選挙で玉木に敗れた後に参院に転出しており、以降の自民党候補は新人であって、玉木が12年は僅差で、14,17年は次第にリードを広げて徐々に勝ち上がってきた。世襲でメディアまで握る平井に勝つ難しさとは比べ物にならず、その点に触れなかったのはフェアではなかったかも知れない。とはいえ、保守地盤の地域で勝ち上がってきた玉木と対比したときに、小川の言動を見ると、利益誘導をやりたくない彼の正義感の反映であるとはいえ、選挙に勝てない原因が対立候補だけでなく本人にもあると思わずにはいられない。

*8:なお、彼は僕が好きな政治家の一人なので、偏った見方をしているかもしれない